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おじさんパッカー 中欧編(16)

16.06.21

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水に浮かぶアムステルダム中央駅

 

日本を洪水から救ったオランダ人

 

このような話をどこかで耳にされたことがおありだろう。
オランダのある少年が堤防付近を歩いていると、堤防の裂け目からわずかに海水が流れ出していた。オランダは海面よりも低く、土地は周囲に張り巡らされた堤防で守られている。海水の圧力が強いので、このままでは裂け目が広がりいずれ堤防の決壊へとつながるだろう。そうなれば国が海に沈んでしまう。そう思った少年は自分の腕を堤防の裂け目に押し込み、流れ出す海水を止め、国を救った。

アムステルダム中央駅は、小さな島のように水に浮かんでいた。詳細な市街図を眺めると、アムステルダムの街も幅50メートルほどの運河で仕切られたマス目の中にビルが建ち、道路が走り、店や住居が軒を並べている。もともと北海につながるアムステル川をダムでせき止めて生み出された土地の上に人々の生活があり、アムステルダムの市名の由来にもなっている。縦横に張り巡らされている水路に水を掃き出し、市街地のほとんどは大規模な干拓地でできている。そのこともあってか、アムステルダム市域の平均海抜はわずか2メートルほどだという。そのため街全体は非常に平坦だ。

 

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アムステル川をせき止めたダムは市民の憩いの場になっている

 

国名はオランダ語で「低地の国」とか「低地地方」を意味するネーデルラント(Nederland)といわれるように、国土全体は地盤が低い。日本で「オランダ」と呼ぶのは、ポルトガル語の「Olanda」からきているといわれている。わが国の九州ほどの面積をもつオランダは、現在でも国土の約30%近くは海面より低く、また国土の20%以上は、13世紀以降の干拓事業によって「自力で造り出された」土地である。1200年代初頭から1900年までの700年間に4625平方キロが干拓され、今世紀に入ってからは、すでに2500平方キロの土地が生み出された。その合計は約8100平方キロで東京都の4倍近くにもなる広大なものだ。オランダの人たちは古くから、「世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」との思いが強いという。

木曽川、長良川、揖斐川という3つの大きな川が合流する岐阜県海津市周辺は、江戸時代から毎年のように洪水に襲われていた。上流から流れ込む大量の土砂が家々や田畑を押し流し、多くの農民が食べるものもなく死んでいったという。そこで明治政府は、洪水被害から国土を守るため、干拓など治水技術にたけているオランダから技術者を日本に招き入れ、水害に強い国土の建設を目指した。

 

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右より現在の木曽川、長良川、揖斐川

 

1873年(明治6年)にオランダからやってきた技術者が31歳のヨハネス・デレーケでした。デレーケは、木曽川、長良川、揖斐川という3つの大きな川が合流し、ひんぱんに洪水をおこすこの地の対策をまかされました。測量調査をもとに、デレーケは川の流れそのものを変えてしまうという大工事を提案します。
彼は25年の歳月をかけて木曽川、長良川、揖斐川を堤防で仕切りる3川の完全分流工事を完成させた。1899年の10年前後を比較した旧海津郡周辺の資料によると、水害による死者は306人が10人に、全壊家屋または流失家屋は15,436軒が304軒、堤防の決壊箇所は1821箇所が226箇所と大幅に減少した。それはオランダ人治水技術者デレーケの行った、河川改修工事の効果のほどを物語っている。
デレーケは、明治政府の内務省勅任官技術顧問として、30年以上日本に滞在した。在日中に携わった工事は、木曽三川工事の他にも、神田下水(東京都千代田区)、デレーケ堰堤(群馬県楱東村)、常願寺川の河川改修(富山県)、淀川の河川改修(大阪市)、鳥取港の築港(鳥取市)、筑後川の導流堤(福岡県大川市)、網島港の築港(宮崎県日向市)など57件にもおよんでいる。「日本の治水技術の基礎を築いた」ことに対して、明治政府から勲二等瑞宝章を授与された。彼の死後100年以上たった今も、デレーケの銅像が伊勢湾にそそぐ、木曽川、長良川、揖斐川の穏やかな流れを眺めている。

 

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デレーケ像(ネットより)

 

デレーケは61歳で母国オランダに戻り、1913年1月、70歳でここアムステルダムで生涯を閉じた。水害大国日本を救ってくれたデレーケの終焉の地を訪れようと、観光案内所や地元の人たちに訊ねてみるが口をそろえて「知らないね」という。ホテルのフロントに立つ、人のいいおじさんにも声をかけるが「日本人がそれほどまでに、オランダ人のことを思っていてくれるのはありがたいが、なにせ100年も前のことだろう。『デレーケ』て言ったっけ?学校では教わらなかったなあ」と、口をつぐんだ。
彼はアムステルダム郊外の ゾルフリート墓地に眠っている。