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おじさんパッカー 中欧編(4)

16.06.21

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ブランデンブルグ門の前でオルガンを奏でるおじさん

手回しオルガンのおじさん

 

片側4車線の道路がベルリンのど真ん中を東西に貫いている。ブランデンブルグ門を基点に旧東ドイツ側は「ウンター・デン・リンデン通り」と名づけられているが、旧西ベルリン側は「6月17日通り」と表記されていた。地元の人の話だと、1953年6月17日の東ベルリンでの暴動で、多くの労働者の命がソ連軍と東ドイツ警察に奪われた。この悲劇を後世に伝えるため、西ベルリン側を通るこの通りは現名称になったという。
ベルリンの街歩きの基点をブランデンブルグ門に定め、きょうは旧西ベルリン方面に向かうことにする。門前に10台ほどの三輪自転車タクシーが、観光客を待っている。日本の人力車に似て、朱色のカバーに彩られた二人がけのシート。「ベロタクシー」と呼ばれ、20代の若者ドライバーが客待ちをしていた。その背後でオルガンの音が響き、人の輪ができている。輪の中に分け入ると、60過ぎのおじさんが自転車の荷台に据付けられた手回しオルガンを奏でていた。白のベレー帽、オレンジのネッカチーフ、チェック模様のチョッキ。まるで場末の劇場から出てきたようないでたちだ。これでもかといわんばかりの満面一杯の笑顔で、取り巻く観光客に愛想を振りまいている。

 

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客待ちのベロタクシー

 

ブランデブルグ門を背に、軽快なメロデーが広場に響き渡っている。旧東ベルリンに住むという手回しオルガンを操るおじさんは、かつて街を分断するベルリンの壁に行く手を遮られ、重苦しい気持ちで過ごしてきたのだろうか。勝手にどこへも行けず、自由な表現も許されず、周囲を取り巻く高い壁に閉じ込められたおじさん達は抑圧され、うっせきする時代を生き抜いてきたのだろう。西側に逃亡しょうと壁によじ登って、警備兵に狙撃された何人もの若者たちを、このおじさんはその眼で見たに違いない。それだけにドイツ統一の象徴であるこのブランデンブルグ門の前で、演奏できる喜びを体一杯で表現しているように私には見える。演奏が終わると、観光客がおじさんの周りに集まり、記念撮影を始めた。おじさんは東西に分断されていた苦しかった時代のことを心の奥深くに押しとどめ、これ以上ないと思われる笑顔を振りまきカメラにおさまっていた。私もおじさんとツーショット。右手を私の肩にかけた柔らかい表情だった。
門前を離れようとすると、中国人家族がシャッターを押してくれという。門を背景に5人ほどがポーズをとった。突然、カメラを構える私の肩口からカメラを取り上げ、「あんたも入りなよ」と声がかかる。私を中国人家族の一員とみたようだ。「ノット ファミリー」と、カメラを取り戻すとドイツ人らしき青年は、バツの悪そうな顔で脇に立っていた仲間のところに戻った。彼は「一人だけ入れないなんて」と、気遣ってくれたのだ。心優しい若者だ。

ここでちょっと「ブランデブルグ門」のことを。ブランデンブルク門 (Brandenburger Tor) はベルリンのシンボルとされている。高さは26メートル、幅は65.5メートル、奥行きは11メートルの、砂岩でできたギリシヤのパルテノン神殿にみられる古典主義様式の門である。1868年に城壁が取り壊されるまで、ベルリンは要塞に囲まれた城郭都市だった。ブランデンブルク門は18箇所あった門のひとつで、残りの門が城壁の取り壊しとともに姿を消していくなか、唯一残されたものらしい。

 

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6月17日通り(ネット)

 

「6月17日通り」を西に向かって歩き始める。片側4車線の直線道路脇の歩道は、猛スピードで駆け抜ける車の騒音と排気ガスで息苦しい。それらを避けるため、道の両側に広がる森の中に入る。車の騒音が消え、うっそうと茂る木々に身をゆだねる。爽やかな風が頬をなで、上高地の山中にでもいるような心地よさだ。周囲に人影はなく、静寂そのもの。街の真ん中によくこんな広い森が残されたものだ。かつては、皇帝の狩場だったという。地図で見ると、幅1キロ、長さ2.5キロもある広大なものだ。
1時間ばかりして森から抜け出し、車の行き交う道路に出る。目の前に黄金に輝く塔が立ち上っていた。広い5本の道路が交差するローターリーの真ん中に、すっくとそびえていた。ドイツで買ったガイド書には「大星型交差点黄金のエンゼル像」とあった。一般に「戦勝記念塔シーゲスゾイレ」と呼ばれている。高さ67メートルの石造の塔。強い陽射しに浮かび立つ黄金色とピサの斜塔を少し細くしたような重厚感。思わず塔頂の女神像を見上げる。空を突くその存在感にしばらく声も出ない。東方向約1.5キロ先のブランデンブルグ門と対峙している。塔の台座を囲む石段に、4,50人の若者が階段状に腰を下ろす。周囲はサッカー場のように緑滴る芝生が敷きつめられていた。昼時とあってホットドックやハンバーグを口にしながら、明るい顔が華やいでいた。どこの国でも若者は明るく、屈託がない。未来があるからだろうか。

 

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戦勝記念塔シーゲスゾイレ

 

塔に登れるという。2.2ユーロ(約300円)。エレベータはない。人ひとりやっとすれ違いができる程度の細いらせん状の石段がまるで天国への階段のように細長く上に伸びている。直径4メートルほどの大木の中をくるくる回っているような感じで、目まいがする。これまで登った多くの人たちで石段のステップは窪み、角も丸みを帯びていた。高さ30センチ以上はあろうか、段差が大きく足の短い私にとって、一段一段が岩登り状態だ。下ってくる中年夫婦と出くわす。壁に張り付くように道をあける。「ダンケシェーン」。旦那が柔和な笑顔で応えた。壁に顔を向けへばりついたまま、背中越しに「どうぞ」と発する私。ようやく女神像の足元に顔を出す。周囲に落下防止の錆びた鉄柵が設けられている。抜けるような青空がベルリンの街にどこまでも広がっていた。ひんやりとした風が頬をなでる。すでに3人の先客がいた。帽子のつばのように張り出したバルコニー。今朝方降りたたったツオー駅周辺が箱庭のように眼下に見える。先ほどまでいたブランデンブルグ門も見える。観光客が豆粒のように動いている。360度の眺望。ここからはベルリンの街のはるか彼方まで見通せる。高いものといえば教会の尖塔が、天に針を突き刺すように伸びているくらいで、67メートルのこの石塔を遮るものはない。高層ビルが林立する東京をはじめ日本の大都会とは、だいぶ趣が違い、空が広い。

 

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戦勝記念塔シーゲスゾイレ

 

街のあちこちに空き地がある。廃墟のような古びた建物が目につく。ベルリンの壁で東西が分断されていた発育不良の街ベルリン。抑圧された人々の心も体もそしてこの街も20年、30年先には蘇るのだろうか。そんなことを考えながらベルリンの風を胸いっぱい吸い込む。30分ほどいたろうか、展望台が込み合ってきた。先客から退散だ。登る時気づかなかったが、塔内の赤茶けた壁に、釘で刻んだような落書きが目立つ。来訪記念のつもりだろうが見苦しい。日本語を探したが目にしなかった。幸いというべきか、ほっとする。
道端の公衆電話から日本の家族に電話を入れる。ノールカップで投函した絵葉書が到着したという。欧州の最北端、北極圏の草木もない辺境の地からの便り。どんな気持ちで読んでいてくれていただろうか。ノルウェーに始まりフィンランド、スウェーデン、デンマークを経て、いまドイツの地を踏んでいる。過ぎ去った時間と訪れた町々で会った人たちのことをしばらく思い浮かべていた。