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おじさんパッカー 中欧編(2)

16.06.21

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ベルリン オスト駅

 

アメリカを恨んでない?

 

定刻どおりプラハ行きの電車がベルリンに向け、ハンブルグ中央駅を離れた。ほどなくアルスター湖にかかる長い鉄橋を渡る。赤レンガの屋根が、湖を取り囲むように帯状にはりついている。市街地を抜けるとなだらかな丘陵が地平線の先の先まで伸びてゆく。うつらうつらと船をこいでいると、若い女性の声でわれに返る。グリーンのスーツにツバのない赤い帽子。「乗車券を…」と私の顔を覗き込む。車掌さんとはいえ、うら若い女性を眼前にして服をめくり上げるのは気恥ずかしいが、腹に巻きつけたポケットバックからチケットを取り出す。「どこまで行きますか」というので、「ベルリンまで」と返事。彼女は「ヤア(はい)」と小さく口にし、チケットを私の手に戻した。その時の爽やかな笑顔がたまらないので、しばらく彼女を見つめていると、彼女の背後にいた指導教官らしい中年男性が私を睨みつけてきた。

 

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混雑するベルリン方面行きホーム

 

緑の絨毯を敷きつめたように地平線まで続く大地。行けども、行けども、車窓の風景は変わらない。いいかげん飽きてくる。二人がけの隣席に人の気配はなく、走り去る風景をただポツンと眺めるしか手がない。突然、どんぶりに盛られたうどんが浮かぶ。それもきつねうどん。プ~ンと鼻先にただようかつお節の香り。黄身の浮かんだ納豆を温かいご飯にまぶせ、口に絡まる糸を箸で巻き取る。大皿に盛られた刺身。わさびが鼻先をつく。……夢だった。どうやら、うつらうつらと寝込んでいたようだ。「日本の味」がことのほか恋しい。望郷は食べ物から始まることを実感した次第だ。
ベルリンの街が眼前に広がる。これまで見ていた田園風景は一変し、赤い屋根が軒を接して連なり、遠くに高層ビルがそびえている。この特急電車はベルリン中央駅に停車しないという。「街の中心駅は?」と駅員にむけると、「ツオー駅。ベルリン動物園が近くにある」と。それではと、下車の準備に腰を上げるとドアが閉まりツオー駅を列車が離れた。仕方ないと次の停車駅「ベルリンオスト」で下車した。前面ガラスで被われた近代的な駅舎だ。古く黒ずんだ石造りのアーチがこれまで見た駅舎だっただけに、このモダンさに思わず見上げる。

 

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殺風景なベルリンオスト駅前通り

 

駅を一歩出ると、石畳にしゃがみこむ質素な身なりの中年男性4、5人が虚ろな目線を向けてきた。私も一瞬身構え、貴重品の入った腹巻に手をやる。ひび割れたビル、壁面が崩れた家屋、凸凹の道路、どうみても大都市ベルリンではない。今夜の宿をと観光案内所を探すが、それらしきものもない。駅構内のみやげ物屋で日本語で書かれた観光案内冊子をみつけ、さっそくベンチに腰掛け広げた。今いるところは、どうやら旧東ベルリンだと知る。駅前に佇み、「さて今夜の宿は?」と、途方にくれ道行く人をぼんやりと眺めている。
1961年8月13日、一夜にしてベルリンに壁が築かれた。以来28年間、街は東西に分断されてきた。1989年11月9日、ベルリンの壁に穴があいた。翌年、東西ドイツは統一され、ベルリンは再びドイツの首都に返り咲く。以降、ベルリンの再建整備がこんにちまで続いている。特に東ベルリン側は荒廃が進んでいて統一されて15年余り経つが、いまだに朽ちた建物があちこちに目につく。

 

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ベルリンの宿

 

今夜の宿をと、20分ほど当てもなく歩を進めると、買物帰りの中年女性と目が合った。「日本から来ました。宿を探しているのですが」と、声をかける。一瞬けげんな顔で私を覗き込むと、「たしかあの角のあたりにホテルがあったように思うが?」と、無表情で立ち去った。木立に囲まれた古びた4階建ての建物があったが表に看板はない。思い切って足を踏み入れると石段があり、その上に「ペガサス ホステル」と横長のプレートが目に入る。よからぬホテルではあるまいなあと、不安な心を押し込めドアに手をかける。いきなりフロントだ。小柄な40前後の女性が笑顔で、「お泊まりですか」と。まだ世話になるともいっていないのに、宿泊手続きなど早口の英語でまくしたてた。その勢いに押され、彼女の意のままに話を進める。朝食つき一泊4000円弱。どうやらユースホステル形式の宿らしい。彼女は終始笑顔で気さくだった。身をかたくしている私をほぐすように、抑揚のある声で冗談を交えながら、速射砲のようにしゃべり続けていた。「支払いは帰るときに清算。パスポーを預かります」と。命の次に大事なパスポートを見ず知らずの人に渡していいものかと…、その言葉に一瞬たじろぐ。ここで泊まると決めたのだからと腹をくくって腹巻から取り出し、彼女に差し出す。「清算の時、返しますから。心配しないで」と、不安な表情で突っ立っている私を柔らかく包み込むように、彼女は笑顔を振りまいてきた。「本当に返してよ。横流ししないだろうな。頼むよ」。私の心の叫びがなおも続く。

街に出て夕食を終え午後9時前、ホテルに戻る。中庭にテーブルが置かれ、木々の間に吊り下げられた電球がぼんぼりのように光っていた。ちょっとしたビヤガーデンだ。宿泊客なのだろうか、十数人の男女の若者がジョッキ片手にはしゃいでいる。近所のおじさんたちの顔もある。テンポの早い曲が広場に広がる。
部屋に戻りシャワーを浴び毛布に包まる。窓の外から若者達の甲高い声とテンポアップの曲が容赦なく、襲う。体は疲れているがなかなか寝つかれない。話し声がするので目を凝らすと、二十歳前後の女性3人が何やら話している。この部屋の住人らしい。男女混浴ならぬ、混泊だ。日本では考えられない。しばらくして仲間の青年が、「下で飲もうよ」と、女性たちを誘いに来た。すると女性の一人がベッドに近づき、「一緒にどうですか」と、私に声をかけてきた。飲むのは嫌いじゃない。どちらかというと好きなほうだ。でも、あのハイテンポの若者の輪の中ではとてもやってゆけそうもない。「明日、早いので」と丁重に断ると、「いいじゃないの。少しだけ」と私の手をとった。仲間の男の子たちの一人が、「どちらから?」というので、「日本から」と答える と、「オー、ヤー、ヤーパン(日本)」とはしゃぎ始めた。
若者たちに強引に手を引かれ、庭に出た。木々の下に木製の古びたテーブルが置かれている。金髪、黒髪と色とりどりの人種の違う若者たちが、ジョッキ片手にはしゃいでいる。午後10時前、すっかり日が落ち庭の木々が街灯にぼんやり照らされていた。
「彼は日本から来ました。よろしく!」と、私の手を握り締めていた青年の一人が、仲間に声をかけた。「日本ですか? 行ったことないな。めちゃめちゃ遠いもの」と仲間の声。「彼はイギリス、その隣の彼はベルギー、次がアメリカ、そして彼女はフランス…、かくゆう私は地元ドイツ、それもベルリン生まれのベルリン育ち、生粋のベルリンっ子さ」と胸を張った。「日本人っていつもキモノ着るんでしょ。あなたはどうして着ていないの」、突然、大学生という女性がメガネ越しに話しかけてきた。「確かにキモノを着るときもあるが、普段は洋服だ。着るのは大学の卒業式とか、成人式とか、結婚式とか、特別なときね。女性は男性に比べて着る機会は多いかもね」。突然、「原爆を落とされたが、アメリカを恨んでいない?」と、ニューヨークから来たという青年が私の目を見た。「広島、長崎は大変なことになった。今でも原爆症で苦しんでいる人は数多い。でも一般国民は米国を恨むより、なぜ戦争したのか、なぜもっと早く終結させなかったのかなど、日本の戦争指導者に強い怒りを感じている人は多いね」。「だけどさあ、非戦闘員である市民の頭上に爆弾を浴びせるなんてけしからん話だ。まして核兵器をだよ。米国は非人道的だ」と、わが国もそうだったがと前置きして、ドイツの青年が怒りをあらわにした。「だけど原爆でも落とさないと、日本は戦争をやめない。あのまま戦争が続けば米軍にも、もちろん日本国民にも、もっともっと犠牲者が出ていたよ」と、ニューヨーカがまくしたてる。

 

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若者と交流したホテルの中庭

 

フランスやイギリス、オランダ、ベルギー、アメリカからという若者たちも、持論を展開する。60年以上前の極東での戦争にいまでも強い関心を持っていることに驚く。戦争を知らない世代が8割になるという日本。ましてや若者たちは経済成長を謳歌し、戦争があったことさえ意識できていないんじゃないのか。ベルリンの街中で、世界の若者たちが太平洋戦争を論じ合っている場に居合わせると、その意識の高さに舌を巻く。
「選挙権は何歳から?」。「高校生で結婚している人いる?」。「京都、奈良にはサムライがいるの?」。そんな質問が次々飛び出す。欧州の彼らにとって、日本はまだまた知られざる国なんだろうか。ここでも、「日本はアメリカについで世界第二の経済大国と言われているのにさ」が、頭をもたげてくる。
「日本の歌を聞かせてよ」というので、♪♪うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川 夢は今も めぐりて 忘れがたき ふるさと ……♪♪。 ビールの勢いを借り、いい歳して声を張り上げる。歌い終えるとほかのテーブルからも拍手が巻き起こった。つたない語学力でもそれなりのコミニケーションがとれた。若者の「のり」にすっかりのせられて気分が高揚。
ダンケシェーン(ありがとう)。