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おじさんパッカー 北欧編(19)

16.06.21

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アレクサンドル2世像とヘルシンキ大聖堂

 

「サンクトペテルブルグ」へどうかね

 

ヘルシンキ港を背に緩い坂道を登ると、崖のように立ち塞がるレンガ色の建物にぶつかった。ガイド書にはウスベンスキー寺院とある。北欧最大のロシア正教の教会で1860年に建設されたようだ。建物の脇の石段を登りきると寺院の正面に出た。どこからこれだけの人が来たのかと思われるほど、寺院の中は人でごった返している。どうやら隣国ロシアからの観光客らしい。小体育館ほどの礼拝室の正面にテンペラ画でキリストの十二使徒が描かれていた。等身大の大きさで周りが金色に彩られ、きらびやかで豪華だった。
突然、背後から声がした。振り向くと私に視線が向けられている。言葉がわからず状況も呑み込めず戸惑っていたら、入り口近くの男性が右手を頭にかざしながら下げるしぐさをした。どうやら「帽子をとりなさい」ということだ。混雑に押されるように礼拝堂に足を踏み入れていて、帽子がのっていることをすっかり忘れていた。慌てて帽子をとり一礼すると、彼はにっこりと笑顔を返してくれた。

礼拝堂から広場に出る。眼下にヘルシンキ港が一望でき、視線を移すとヘルシンキの街が小雨に煙っている。黒ずんだ石造りの建物が整然と放射状に広がり、右前方には白亜のヘルシンキ大聖堂が悠然とそびえていた。
隣にいた白人の中年夫婦が感激のあまり、ロシア語で「すばらしい!」とかなんとか大きな声を発した。感極まったのか旦那がいきなり脇にいた私の肩に手をかけ、「すばらしい!」を繰り返しながら私の眼前に右手親指を突き出した。私はただ、ヘルシンキの街並みが一望できたぐらいにしか感じなかったので、このロシア人夫婦の心の高揚感を共有することはできなかった。
たぶんこのロシア人夫婦の喜びは、ヘルシンキの風景だけじゃなく、北欧最大のロシア正教の教会「ウスベンスキー寺院」を訪れた感動が重なっているのだろうと思う。

 

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ウスベンスキー寺院と大統領官邸

 

坂道を下り、礼拝堂の広場から見えた白亜の建物を目指す。ほどなく大統領官邸の前に出た。といってもガイド書に書いてあったのでわかったまでで、読まなかったらそのまま素通りしてもおかしくない。官邸は歩道に面した古びた建物で、護衛が立っているわけでもなく、立派な門があるわけでもない。建物に取り付けられたプレート(Presidentin Iinna)がなければ誰も気づかないと思う。何人もの護衛官が配され、高い塀に囲まれている日本の首相官邸のような仰々しさはなく、大統領も庶民に溶け込んでいるのだと実感させられる。

石畳の広場に出た。中央には見上げるばかりの銅像が天をついている。足元の台座の周りには、赤、黄、青と色とりどりの草花が絨毯のように敷き詰められていて、背後から覆いかぶさるように白亜のヘルシンキ大聖堂が迫っていた。
この広場は「元老院広場」と呼ばれ、毎年、フィンランドの大統領がここで演説することが恒例行事になっているという。ヘルシンキのランドマークで大勢の人が集まる所らしい。ところが生憎の雨。人影は少ない。
3台の観光バスが横づけされた。ロシア人風の団体がどっと押し寄せて、銅像の周りに分厚い人垣ができた。すべてがおじさん、おばさんたちだ。広場にはロシア語が行き交っている。見る人、見る人、腰なのかお尻なのかビア樽のように丸くてでかい。肥満の日本人でもこれほどの大きさはないだろう。ロシア人でテニスのシャラポア選手も歳をとるとこうなるのかなあ。

この広場にはヘルシンキを訪れるロシアの人がいの一番にやってくるという。それもそのはず銅像の主は、ロシア皇帝アレクサンドル2世の立像だ。フィンランドは1809年から1917年まで109年間の長期にわたってロシアに統治されていた。その間、ロシアの圧政に苦しんでいただろうにどうして侵略者の銅像が街の中心にあるのか、私には理解できない。
実はフィンランドを支配下に置いた歴代ロシア皇帝の中でも、とりわけアレクサンドル2世は、フィンランド語を行政上の公用語として認めるなど最大限に自由を重んじ、フィンランド人の民族意識を啓発してくれた名君だったようだ。そのことへの感謝と敬意を込めた記念碑として現在に引き継がれているということらしい。

「もしかしたらあなた日本人?」と、赤ら顔のおじさんが声をかけてきた。「どうして日本人ってわかったの」と返すと、「小柄で、メガネをかけて、カメラを持っていれば日本人でしょう」と、おじさんは親しみをこめた柔和な笑顔で私の眼を見た。
そして「われわれはサンクトペテルブルグからだ。このバスに乗せてあげてもいいけど…。ヘルシンキから直通電車もあるようだから来てみなさいよ。すばらしい街だよ」と、半ば冗談まじりに誘ってきた。
ヘルシンキから東、約300キロ先にかつてのロシア帝国の首都サンクトペテルブルグがある。ソ連時代にはレニングラードと呼ばれていた。エカテーリーナ2世のコレクッションを収集展示しているエルミタージュ美術館が有名だ。ヘルシンキ駅から直通電車が走っていて5時間もあれば行ける。せっかくだからと一瞬、足を延ばすことが頭をよぎった。が、ロシアはビザが必要だ。もし捕まったら2週間以上拘束されるなど無事にはすみそうもない。
幅100メートル以上はある石段が広場からヘルシンキ大聖堂に続いている。雨に濡れた石段を滑らないよう慎重に足を運ぶ。登りきるとアテネ神殿を思わせる大理石の真っ白い石柱と寺院のドームが、のしかかってくるように迫ってくる。
この大聖堂は、30年の歳月を費やして1852年に完成したとある。正面入り口から足を踏み入れる。彫刻がびっしり施された扉が城壁のように聖堂を囲んでいた。正面の黄金色に輝く祭壇に目をやると、おおよそ300人位の人がいた。静かにひれ伏し、一心に祈りを捧げている老女が目につく。

大聖堂を出るとすっかり雨は上がっていた。ずぶぬれの折りたたみ傘を右手にぶら下げてしばらく歩く。日本の家族に電話をと、公衆電話を探すが見当たらない。ここフィンランドも携帯電話が普及していて、公衆電話が撤去されつつあるのだろうか。
フェリーターミナルでようやく公衆電話を見つけた。時差がプラス8時間だから、わが家は夜の11時を回ったところだろう。ノールカップでは電話できなかったので4日ぶりだ。音信不通で気をもんでいたようだ。日本は梅雨でうっとうしいとこぼしていた。家族の声を聞くとほっとする。旅はあくまで帰る所があってのものだと改めて実感する。

海沿いに歩くと長屋風の建物が目に入る。「オールドマーケットホール」と呼ばれている近隣の人たちが利用するマーケット だ。店内は海産物や果物、食堂などひしめくように店を連ねている。肩をぶつけながら混雑した店内を歩く。1メートルはゆうにあるサーモンが何本も吊り下げられている。客から声がかかると暖簾をかき分けるように、サーモンの隙間から赤ら顔のオヤジさんが顔を出していた。

 

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本格的な寿司屋(ヘルシンキ港)

 

寿司屋があった。「こんな所に寿司屋なんて」と驚いた。「海苔寿司」と日本語の看板。寿司としたためられた提灯が下がっている。カウンターとテーブル席、おおよそ20人ほどのスペース。店内をのぞいて見たが客はいなかった。青い目の寿司職人が3人ほどいた。金髪の若い女性店員が、手持ちぶたさに店先を通り過ぎる人たちを眺めている。

せっかくだからと、店に足を踏み入れようとしたが値段表はない。ここでぼられでもしたらと(日本の寿司屋でも時価は怖い)諦める。それもあったが、青い目の職人さんに握ってもらわなくとも、日本に帰れば本ちゃんの職人が握った寿司が口に入ると…、そんな言い訳を自分で自分に言い聞かせ店を離れた。