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おじさんパッカー 北欧編(15)

16.06.21

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郵便局(ノールカップ)

 

さらば ノールカップ

 

ノールカップホール内に夏場だけ開設されている郵便局がある。「北極点に一番近い公設郵便局」と呼ばれていて、この郵便局から投函すると、
欧州最北の地、ノールカップ到達記念の消印がつくというので家族や友人に絵葉書を出すことにした。

切手を買うとき、ちょっとしたハプニングがあった。「エィテーン」と言ったつもりだったが、売店の若い女の子が長い切手シートを取り出し、枚数を数え始めた。どうやら「エィティ」と聞き取ったようだ。あわてて訂正して事なきを得た。「そうでしょうよ。80枚なんてね」と、彼女はおどけるような表情で、満面いっぱいに笑み浮かべた。

優しく包み込むような自然でやさしい笑顔は、言葉も十分に通じない見知らぬ国で、誰一人として顔見知りのいない旅先に身を置き不安を感じている旅人にとって、何よりのもてなしだと思う。彼らが心の中でどのように思っているのかは知るよしもないが、これまで会ったヨーロッパの国々の人たちは若い人からお年寄りまで、男女を問わず笑顔がやさしいし、美しい。

 

かたわらで、アメリカからやってきたという中年女性が文を綴っていた。書き終えると、彼女は私の絵葉書を覗き込んで「あなた、そんなによく書くことがあるね。私は長い時間かけてようやくここにやって来たけど、周りは真っ白で何も見えやしないじゃない。寒いだけでつまらないところね」と、唇を突き出した。「昨日は海の向こうに太陽が顔をのぞかせていましたよ。一瞬ですけどね」と私が話すと、「信じられない」と、また彼女は顔をゆがめた。

 

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ポスター(ノールカップ)

 

立ち昇る太陽を浴びて黄金色に輝く岬の先に建つ地球儀や、断崖絶壁の岩場を飛び交う海鳥、夕日で茜色に染めあげられた海など、ノールカップ周辺の風景を切り取ったポスターが、郵便局の壁いっぱいに貼りつけられていた。それを横目でみたアメリカからの中年女性は、「こんなの信じられないわ」と、窓ガラスの向こうに広がる、まるで牛乳を流したように真っ白な世界に目をやって、「もう帰る時間だから」と、苛立ちを露わにしてホールを出て行った。

 

このアメリカの女性観光客の気持ちはわからないでもない。かくいう私も、ポスターに見るような極北の景色を夢見て、何日もかけてここ北極の地にやって来た。ところが、2日間いて太陽がまともに顔をのぞかせたのは、せいぜい1時間弱。極北の岬はほとんどが深い霧に覆われ、視界の先には薄ぼんやり浮かぶ地球儀のモニュメントと落下防止のフェンスが、影絵のように延びているだけだった。

 

今日は日曜日、ホールを訪れる人の数はますます増えるばかりだ。

大型バスから降り立った観光客は、あらかじめ教え込まれたかのように一目散にホールを通り抜け、乳白色の濃霧をかき分けながら、手探りで岬の地球儀を目指す。そして30分ほどでホールに戻って来ると、寒さに震えながら「せっかく来たのに何も見えやしない!」と、吐き捨てるように不満をあらわにしていた。

その後、観光客はホール内の売店で1時間ほど土産物などを物色すると、バスに戻って次の行程に向かう。観光バスで次々とやって来る団体さんのほとんどが、2時間ほどの滞在で次の目的地に向かうという慌ただしいものだ。

 

混雑するホール内にじっと目を凝らして、日本人を探した。風貌は中国人と変らないので、会話する言葉に注意深く聞き耳を立てた。でも残念ながら、日本人観光客に出会うことはできなかった。「これだけ大勢の人がいるが日本人は私だけか」と、半ば得意げにひとり笑いしている自分に気づく。

 

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団体客が去り人影の消えたホール内(ノールカップ)

 

館内に300席はあろうか、劇場風のホールがある。3台のプロジェクターで立体的な映像がエンドレスで流されていた。

ノールカップ岬の上空から、切り立つ岩壁に向け急降下する映像には今にも岩にぶつかるのではと、はらはらさせられる。自分たちが操縦席にいるという臨場感がたまらない。

やがて視点は海中にゆく。昆布の林、群れをなす北極海の魚、アシカ、トドといった海獣も顔を出す。潜水艦の窓から見るように水中の景色が目の前にひろがってゆく。しばらく迫力ある映像に酔いしれる。

画面は一転して、この極北の地の季節の移り変わりが映し出された。1月末、氷に閉ざされた水平線から太陽が3か月ぶりに顔を出し、海鳥が慌ただしく飛び交う。6月、短い夏が訪れ、海中の生物が活発に動き出す。漁をする小船が漂っている。タラ漁の大型船が海から引っこ抜くように大量の魚を水揚げする。やがて、太陽が低くくなり、陽射しが消え始める。海も黒くなり、あたりも暗くなる。水平線を這うように太陽が横にすべり、やがてまったく顔を出さない暗黒の冬が訪れる。オーロラが空一面に色とりどりのカーテンを垂らし、あたりを色鮮やかに染める。真黒な天上のスクリーンに映写機を投影しているように、赤、黄、青などが織りなす光の帯がまるで生き物のように自在に動き回っている。見上げる人たちを絡めとり、そのまま大空へ持ち上げるのではと思われるオーロラの激しい動きだ。今いるこの地を冬場に訪れれば、このような迫力ある光景に出会うことができるのだと、心の中で思わず叫んでいた。

 

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この先に北極点が  背後はノーカップホール

 

午前零時過ぎ、観光客が一斉に歓声をあげた。地球儀のモニュメントの彼方から、太陽が顔を出したのだ。岬の先端に集まった人たちの顔を黄金(こがね)色に照らし、これまで暗く沈黙していた海面や岩礁が、たちまち鮮やかな茜色に染め上げられていく。人々は、まるで魂を奪い取られたかのようにただ押し黙ったまま、陽ざしの向こうを身じろぎもせず見つめている。ノールカップ最後の夜、思わぬプレゼントに私も茫然自失のていでしばらく立ちすくんでいた。

 

「さようなら!ノールカップ」

目を輝かせてオーロラを語ってくれたホニングスヴォークのおばあさん。いつまでもお元気で。この冬もオーロラに抱かれるのだろう。おばあさんと孫があの公園で降り注ぐ妖光を見上げているのを想像する。

もう二度とこの地に足を運ぶことはないだろう。旅先で出会った人たち、岩だらけの荒涼とした風景ともお別れだ。旅は出会いと別れが織りなす。さあ、次はどんな出会いが待っていてくれているのだろうか。

昨夜、寒さから身を守ってくれた親切なオランダ人が、「バスに乗り遅れないように」と、階段横の長いすで体を休めていた私の傍に来て、耳元でそうささやいた。乗り遅れないだろうかと、ずっと私のことを気にかけてくれていたのだ。

 

午前2時、フィンランドに向かうバスに乗り込む。