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おじさんパッカー 英国編(最終回)

16.06.22

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ニュートン像

 

さようなら

 

いつもより30分ほど早く食堂に顔を出すと、カウンター越しに見慣れた顔が私を見つめていた。食堂のオバサンだ。「お世話になりました。きょうはロンドン最後の日です。今夜の飛行機で日本に帰ります」。そう言うと配膳の手を休めて「お元気で…」 と、顔面一杯に笑顔を広げ私の目をみつめる。今朝もいつものように大皿にたまご料理、ハム、ソーセージ、ポテトサラダなどを盛り付けながら「おまけね」と小さくウィンクしたので、皿に目を落とすとソーセージが2本あった。「サンキュ~」と、テンションをあげておばさんに笑顔を返す。

ロンドンに来て初めて食堂に顔を出した時、太くて美味しそうだったので、配膳してくれるおばさんに「ソーセージ2本頂戴」というと、「ノー! 1人1本が決まりよね」と、やんわり断られた。このことがあってから食堂に顔を出すと、「ソーセージ2本のあなた。おはよう!」と、おばさんは笑顔で私をからかうようになった。

窓際のテーブルに席をとる。向かいに見える地下鉄セント・パンクラス駅を目指して、サラリーマンたちが、まるで水牛の群れのように、ひとかたまりになって歩を速める。「この景色も、もう見納めだなあ」、そんな思いで、いつになくゆっくりと噛みしめるように食べ物を口に運ぶ。

 

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大英図書館

 

今夜の飛行機までまだ時間があるのでと、向かいの大英図書館に向かう。大英美術館、大英博物館と、「大英」がつくとパルテノン神殿を模したギリシヤ風の建築様式が目に浮かぶが、大英図書館はこれらと違ってとっても近代的な建物だ。低い屋根、周囲の壁面は濃いレンガ色に包まれ、しっとりと落ち着いた佇まいをしている。理科系を鼓舞するかのように、コンパスを手に工作図面を描いている若者のでっかいモニュメントが、目に飛び込んできた。さてこの像にどんな意味があるのかとガイドブックを紐解くと、万有引力のニュートンが、コンパスを持って方程式を解いている姿だという。

閲覧には登録カードが必要と係員にいわれ、はたと困った。「日本から来ました。今夜の飛行機で帰ります。ロンドン最後の日です。グーテンベルグの42行聖書、マグナカルタがどうしても見たい」と、フロントの女性係員に掛け合うが「ノー」の一点張 り。しつこく迫るものだから、奥から中年男性の係員が顔を出し、「42行聖書、マグナカルタなどは特別室に展示してある。今日だけの許可証を出しましょう」と、名刺大の紙切れを手渡された。さっそく階段を駆け上がり特別室に入る。

そこには大英図書館の秘宝といわれるマグナカルタの原本や15世紀にグーテンベルグが活版印刷した世界初の印刷聖書である42行聖書が部屋の中央のぶ厚いガラスのケースに収められていた。ベートーベンやモーツアルトの自筆楽譜と並べて、ビートルズの「イェスタディ」の譜面原稿も壁際のガラスケースにあった。ジョンレノンが推敲中に使っていたのか、書きかけの五線紙上部の余白に、腹を突き出したひげ面の若者が、両手を挙げておどけて踊っている落書きが描かれている。きっと、創作に苦しむ本人の姿だろうが、その時のジョンレノンのいたずらそうな顔が浮かぶ。

 

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ウィンブルドンの町

 

つぎに目指したのは、ロンドン郊外にあるテニスの聖地「ウィンブルドン テニスコート」だ。コートに近い「サウスフィールド駅」で下車する。わき道から出てきた40前後の男性と出くわし、「ウィンブルドン テニスコートに行きたいのですが」と声をかける。地元の人らしく、ジーパンにTシャツという軽い服装だ。「途中まで行くから案内するよ」と、一緒に歩き出した。「どこから来たの」。「日本から」。「イギリスはどう。いつまでいるの? 日本には行ったことはないが、ホンダ、トヨタはこちらでもよく聞くよ」。そんな話をしながら歩く。「この道をまっすぐ行けばいい。20分も歩けばコートが見えるよ。じゃ、いい旅を」と、男性は脇道にそれた。つい20日前、テニス中継で世界中が注目したこのウィンブルドンの町は、そのようなことが本当にあったの?と思わせるほど、人影もまばらで、低層住宅が連なる、質素でいたって素朴な町並みが続いている。

 

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センターコート

 

テレビ中継で見慣れたモスグリーンの屋根が見えた。センターコートだ。まちがいなくここはあの「ウィンブルドン」だと、一瞬、身震いする。正門に立つと、真正面にセンターコートの巨大な屋根が小山のように盛り上がっていた。大会が終わったばかりで後始末なのか、工事の車が頻繁に行き来している。

センターコートの観客席の下にしつらえられた「ウィンブルドン博物館」(入場料約1200円)に入る。歴代優勝者のプレートや当時使っていたラケット、シューズなどがガラスケースに陳列されている。「センターコート入り口」の表示を見つけ、階段を昇りついにセンターコートに立つ。といっても見学者用のガラスで仕切られた3畳くらいの部屋で、コートを見下ろすようにスタンドの1番高いところにある。センターコート全面にビニールシートが被されていた。養生のため芝生がめくり取られているのか、シートの隅から黒っぽい地肌が見えた。このセンターコートは、毎年、6月最終月曜日から開催される、ウィンブルドン選手権の期間中のわずか2週間しか使用されないという。日本なら「これだけの施設をほぼ1年もの間、寝かせておくのはもったいない」と、声が上がるところだろうが、「テニスの聖域」として大切にされているらしい。

 

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ウィンブルドン博物館

 

売店でウィンブルドンオリジナルのユニフォーム(約6000円)と帽子(約2000円)を買う。「これは着ればあなたもフェデラー(当時の世界NO1プレーヤー)だ。これでプレーするとうまくなるよ」。こんなジョークを店員が言ったので思わず、声を上げて笑った。ほかの客も「服を着ただけでうまくなるなら、いくらでも買うぞ!」と、笑っている。ジョーク好きのイギリス人らしいね。

ヒースロー空港。18時30分、搭乗手続きを終えリュックを預け、身軽になった。手荷物検査や税関を抜け出発ロビーに入る。バレーコートが10個以上はとれそうなくらい広く、そして真昼のように明るい。数百人もが搭乗の時を待っている。私の便は夜の10時。まだロビーの電光表示板に案内されていない。「110便成田行き、搭乗手続きが開始されました。出発ゲートまでお急ぎください」とか、「○○さん、まもなく搭乗手続きを終了しますので急いでお越しください」。こんな日本語の放送が流れている。日本航空のアナウンスらしいが、異国にいながら日本が身近に感じられる。

 

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空港ロビー

 

21時40分、搭乗券のチェックを受け機内に移動する。満員電車なみの込みようで、狭い通路に乗客たちがぶつかり合っていた。ほぼ満席状態。3人がけで私の席は窓側だったが、若いアベックに譲り通路側に座る。ペアの男性が会釈して頭を下げ、「オーストラリアへ帰る」と、言葉をつないだ。
22時6分、ドアが閉じられ滑走路に向けゆっくり動き出す。ざわついていた乗客も静かになった。シートベルト着用のサイン。これから長い、長い空の旅の始まりだ。

滑走路に入ると、腹の底まで響き渡るエンジン音とともに、機体はぐんぐん加速する。体が押し潰されるんじゃないか…と、ものすごい力でシートに押し付けられる。機内の照明が切られ、暗いなか不気味な振動を体に感じながらじっと身構える。「ここで離陸できなかったら全滅か」と、腹をくくる瞬間だ。ほどなく体が浮き上がるように急に軽くなった。無事離陸したのだ。眼下にロンドンの夜景が広がっている。照明が点灯され機内は明るくなる。周囲を見渡すと互いに笑顔で会話するなど、乗客に安堵感が戻ったようだ。飛行機に慣れた人でも離陸、着陸の瞬間は緊張するという。ロンドンの夜景を眺めながら、思わず「さようなら」と口をついた。ノルウェーから始まった欧州の旅はこれでおしまい。これまでの出来ごとや旅先で出会った人たちの顔が、走馬灯のように脳裏を流れてゆく。

 

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