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あやしくない天守のお話 

16.07.21

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杉山 裕章

今から350年も前の江戸時代のお話です。三代将軍徳川家光が亡くなって数年ののち、明暦の大火(1657年)で江戸城の天守が焼け落ちてしまいました。

徳川家康の五重天守(秀吉の大坂城天守の約二倍の容積)を二代将軍秀忠が造り直し将軍の代替りを知らしめるように、三代将軍家光がより大きく、より豪華に建て直した日本一の五重天守(44.8m)だったそうです。

幕府は保科正之の提言に従い、軍事目的としては無意味となった天守の建設を中止し、(加賀藩前田家が天守台は造った)本丸の富士見櫓(三階櫓)を天守代用としました。
そして、1665年には、秀忠が造らせた再建大坂城の天守が落雷で焼失しました。
それより前、家康が造らせた駿府城の天守は1607年と1635年の二度焼失しています。

そして家康再建の伏見城天守もすでに二条城へ移築され廃城となり、甲府城にはもともと徳川の天守はありません。

これにより将軍家の天守は家光が伏見城より移築させた二条城だけになりました。その五重天守も1750年にまた落雷で焼失することになるのです。

織田信長が小牧山で試み、岐阜城をへて1579年に安土城で完成させた総石垣造りの最先端技術は秀吉とその子飼いの武将たちに引き継がれ、彼らは大坂城を完成させると聚楽第、近江八幡、大和郡山、指月伏見、肥前名護屋、会津若松、木幡伏見、岸和田、 岡山、津山、柳川、松山、熊本など全国の拠点に五重天守の城郭を築き上げました。

『太閤秀吉好み』の天守といえば、木部には黒漆を塗り、黄金色の飾り金具や彫刻 ちりばめ、金箔瓦をつかった絢爛豪華な造りのようです。聚楽第や大坂城天守の絵図や発掘の出土品からそのことが見てとれます。黒い外観です。家康は太閤秀吉色を一掃し、徳川将軍家の天下を世に知らしめるために、大坂城より大きい天守を江戸城で造らせました。白漆喰の総塗りこめで、屋根の最上階だけは銅板 瓦葺きの美しい天守でした。白い外観です。家康好み』の総仕上げは名古屋城の五重天守(1751年の大修理で外観は変わって、 すべての屋根が銅板瓦葺きに)と考えられています。

作事を指導したのは、家康の大工頭で、すでに再建伏見城、二条城、江戸城、駿府城の天守造営の経験をもつ中井正清です。二人で完成させた最後の天守なのですから 秀吉子飼いの加藤清正、福島正則、黒田長政、加藤嘉明、田中吉政、浅野、生駒、山内蜂須賀、金森、細川、池田、前田などの諸大名に名古屋城の建造を命じました。 いわゆる『天下普請の城』です。なぜなら、家康の家臣団には総石垣造りの先端技術は伝わっていなかったからです。三河武士だけで造った関東の代表的な城郭といわれる 水戸城は、高石垣も天守もない土塁の城なのです。大坂夏の陣のとき、
家康はこの名古屋城から出陣し、豊臣家を滅ぼし行きました。

戦いに勝利すると、総構えの増築を中止したのです。名古屋城は淀殿と秀頼の大坂城攻略の要の城だったからです。 また、家康の娘婿となった、池田輝政の姫路城の天守(大坂城の天守くらいの大きさ)もこの流れのなかにあります。とにかく白いのです。

今の大坂城(昭和6年の鉄筋コンクリート製)は、誰に気配りしたのか上層は太閤秀吉、下方は家康好みの混合で造られたニセ天守です。しかし、贋物でも80年もたてば大坂の景色に溶け込んでしまうようでより罪が重いともいえます。
太閤秀吉の天守は29年後に 落城焼失し、徳川秀忠の再建天守は40年後に、落雷で焼け落ちてしまったのですから、

ニセの天守も百年もてば重要文化財にでもなりそうですね。

木造のニセ天守もあります。昭和8年、郡上八幡城の天守は当時現存していた国宝(註)
大垣城をモデルに造られました。天守台はあったのだが、天守なしの城に歴史的事実を 無視してやってしまいました。

註:戦前の国宝指定は名古屋、弘前、松本、丸岡、犬山、大垣、和歌山、姫路、岡山松江、広島、福山、松山、宇和島、高知城の天守群と、熊本城、二条城など

最近でも、郷土資料館、博物館、歴史民俗資料館などと称して、堂々とニセの天守を建設している『怪しい城』がいくつもあります。

三戸、横手、上山、千葉、館山、小山、富山、勝山、浜松、清洲、小牧、岩崎、岐阜、墨俣、長浜、川之江、日和佐、中村、平戸、唐津、中津、杵築城天守などです。

年寄りにはエレベーターつきの方が楽でよいのですが。これはまた別の話。

全国各地に2~3万をこえる城、舘、砦などが築かれましたが、天守が挙げられたのはごく限られた城だけでした。伊達氏や上杉氏、佐竹氏、黒田氏、島津氏のように天守を造らなかった大名もいましたし、天守を造れなかった大名、小名もいました。

信長の安土築城以降、天守や天守代用の三階櫓は再建を含めて170ほど造られました。
駿府城の天守のようにすぐ火事で炎上したり、弘前城、福井城、岸和田、佐賀城などの 天守のように落雷で焼失したり、麦島城、指月伏見城、掛川城、岡城、鳥羽城の天守は地震で倒壊し、松坂城、田丸城の天守は暴風雨で倒壊しました。

大和郡山城の五重天守は二条城に移築されましたし、聚楽第や近江八幡城、名護屋城沼城、岩国城の天守のように破却されたり、伊勢亀山城の天守のように間違えて破却されたり、佐倉城の天守のように盗賊に燃やされたりでその数も減りました。

敗戦で焼失した天守は以外に少なく、柴田勝家の北庄城、関ヶ原の前哨戦で伏見と津城、関ヶ原直後の佐和山城と夏の陣での大坂城くらいです。犬山城の天守ように何度も敗戦落城しても、うまく負けたり、逃げたりすれば炎上することはないようです。侍たちの多くは逃げたり、降参したり、裏切ったりしたから、家名が続いたのです。

幕末の動乱前に、天守(天守代用の三階櫓を含む)は62ほどに減ってしまいました。財政的な理由もあって、再建できない藩も多かったのです。戊辰戦争で炎上焼失した天守、三階櫓は白河小峰城の三階櫓のみでした。落城した宇都宮二本松、棚倉にはもともと天守はなく、桑名、村上、三春城にもすでに天守はなかった のです。長岡城の天守代用乾三階櫓は二度の落城でも残ったようです。最後に降伏した

会津若松城もボロボロの姿でしたが、天守は焼けずに写真にも残っています。
明治になって解体された天守、三階櫓のなかにも、古写真で確認できるものがあります。

東北の方から盛岡城三階櫓、米沢三階櫓、会津若松城の再建五重天守、新発田再建三階櫓、高埼三階櫓、古河三階櫓、高島城三重天守、福井代用巽三重櫓、小田原城再建三重天守、岡崎城改築三重天守、伊勢亀山三階櫓、丹波亀山城の五重天守、摂津尼崎城四重天守、 鳥取代用三階櫓、米子城天守新旧並立、美作津山城の改造五重天守、高松城増築三重天守、徳島三階櫓、大洲城四重天守、萩城の五重天守、久留米三重櫓、
岡城代用三階櫓などです。

明治5年1月に失火で柳川城の五重天守が焼失し、2月浜田地震で浜田城の三階櫓も倒壊しました。西南戦争で熊本城の大天守と小天守が失火で炎上しました。
明治も二十数年すぎ自然崩壊で奈良の高取城が消滅します。そして最後に老朽化し 愛媛の大洲城の四重天守が解体されました。
大正12年、関東大震災で江戸城の天守代用の富士見櫓が大破、解体修理されました。昭和まで残った天守、三階櫓はわずか20基となりました。米軍による本土空襲で仙台城の大手門、水戸の三階櫓、名古屋、大垣、和歌山、岡山、 福山城天守が焼失。
そして、原子爆弾で広島城天守が一瞬で破壊されました。

戦後になって、北海道の松前城三階櫓が失火で炎上したので、残った天守、三階櫓は 建物の高い順に並べると、姫路城五重天守(31.5m)、松本城五重天守、松江城四重天守、松山城再建三重天守、高知城再建四重天守、犬山城増築三重天守、宇和島城再建三重天守、彦根城三重天守、丸亀城再建三階櫓、弘前城三階櫓、丸岡城再建二重天守、備中松山城二重天守(11m)の12基となってしまいました。

名古屋城の木造での天守再建が話題となっていますが、難題は寄付が集まるかどうかより、檜の柱がどれだけ確保できるかどうかだと思います。樹齢800年以上の檜は日本 国内どこにもありません。徳川家光のころまでに採り尽くされてしまいました。
昭和52年からはじまった奈良薬師寺の西塔(三重塔)の復興のとき、『最後の宮大工』 といわれた西岡常一頭梁(代々法隆寺の番匠の家柄)も苦労して台湾の奥地でヒノキ山をなんとか確保できたのですから。
つづくか