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おじさんパッカー 英国編(23)

16.06.22

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シェイクスピアの書斎(ネットより)

 

シェイクスピアが生まれた家

 

朝8時過ぎ、民宿のおばさんが「朝食、用意できたよ」と、部屋まで呼びに来てくれた。すぐさま階下の食堂へ。壁のあちこちに家族の写真や風景画が隙間なく貼り付けられている。窓辺には赤や紫、白と色とりどりに咲きそろった鉢が置かれていた。カーテンもオレンジ色でまとめられ、大きなガラス窓から朝日が射し込み、朝食のテーブルは黄金色に染まっている。やや太目のおばさんも、ピンクのエプロンをまとい華やいで見える。

席につくと、私の前におばさんがベーコン、ハムエッグ、蒸した大豆、ゆで卵2個を並べ「さあどうぞ。パンは好きなだけ取ってね」と、会釈した。朝食にしては結構ボリュームがある。他に2名の客がいた。向かいの中年女性に「日本から来ました」と挨拶し、「日本のこと知っていますか」と話を向けると「知らない」と、ひとこと。そのまま黙ってしまったのでそれ以上話は進まなかった。ロシア系らしく色白で彫りの深い鋭い目つきで、無表情にパンを口に運んでいる。それでも民宿のおばさんは、彼女にしきりに話しかけていた。ロシア系の女性から時折、笑顔が見られる。寡黙な客の心を開くなど、民宿のおかみさんはさすが客商売に長けている。
「ところであなた、昨日、シェイクスピアの家に行ったようだけど、中に入ったの?」と、私に視線を向けてきた。「道路から見ただけ。時間が遅かったのか閉まっていた」というと、「それじゃこれから行きなさいよ。ここにきてシェイクスピアの生まれ育った家を見ないで日本に帰っちゃ、絶対に後悔するから…」と、おばさんはいつになく大きな声で迫ってきた。

 

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お世話になった民宿

 

おばさんの勢いに押されるように、朝食をすませた後、ショルダーバックを提げて街に出る。今日も、大勢の観光客が通りを埋めていた。
シェイクスピアの生家に隣接してレンガ造りの「シェイクスピアセンター」があり、シェイクスピアの生家へはここを通って行く。世界中から年間50万人もの観光客が訪れるということで、シェイクスピアセンターの入口には、日本語を含む6ヶ国語で「シェイクスピアの生家へようこそ」と書かれたボードが掲示されていた。生家に入る前に、シェイクスピアの生い立ちや当時の時代背景など、30分ほどビデオで事前学習をする。

ウィリアム・シェイクスピアは、1564年4月にこのストラスフォード・アポン・エイヴォンに生まれた。「そうか、日本では戦国時代と呼ばれるこの時期、桶狭間で織田軍が今川軍を破ったのが1560年。また、天下分け目の『関が原の合戦』が1600年だったなあ」、そんなことを考えながらビデオに見入っていた。
父のジョン・シェイクスピアは皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある町の名士だったようだ。母メアリ・アーデンは名家の娘。シェイクスピアは、このような両親のもと非常に裕福な家庭環境で育った。シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がい て、ウィリアムは3番目に生まれている。ウィリアムの生まれた頃は裕福であったが、羊毛の闇市場に関わったことで父が起訴され、町長職を失った。それ以降、シェイクスピア家は傾き始めたという。

 

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ここから生家に入る

 

こんなことを頭に入れて、いよいよ生家に足を踏み入れる。300坪以上はある庭を花壇や伸び放題の雑木が埋め、田舎の素朴な風情が漂っていた。道路から見るとそれほどでもなかったが、4棟からなる大きな家だ。台所や皮手袋を作っていた作業部屋、寝室、そして住み込みの作業員たちが寝泊りした部屋が通路に沿って並んでいる。当時使っていた鍋、釜といった台所用品が並 び、寝室には木製のベッドが湿っぽい臭いとともに、450年前の生活の様子を今に伝えていた。
執筆の部屋があった。6畳ほどの広さ。当時彼が使っていた机が窓辺に置かれ、シェイクスピアに似せた等身大の人形が筆を執っている。照明に使ったローソクの焦げあとが、執筆机のあちこちに見られる。かつてドイツのフランクフルトで、あの文豪ゲーテの生家を訪れた時にも目にした、執筆机の黒焦げを思い出す。

 

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この部屋でシェイクスピアが生まれたらしい(ネットより)

 

30人ほどが行列をなして、まるでベルトコンベヤーのように各部屋を回る。どんな小さな部屋にも、係員が座っている。どういうわけか、体の大きな人ばかりで部屋の隅で窮屈そうに背を丸めていた。寝室や執筆した部屋、台所、作りかけの皮手袋が並べられた作業部屋などでは係員が説明してくれる。よく聞き取れないので、しばらく立ち止まっていると「早く進んで!」と、説明係のこれまでの笑顔が、にわかに怖い顔になった。むき出しの土壁、柱や梁、低い天井、そのうえ部屋全体が薄暗いので、気持ちが徐々に落ち込んでくる。それでも約1時間ほどかけて部屋を巡る。

 

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生家の庭と日本人母娘

 

穴倉のような狭く、古びた部屋から開放され、庭に出る。室内では撮影禁止ということもあって、見学を終えた人たちが、あちこちで450年前の建物にレンズを向けている。「お願いできますか」と、イギリスを旅しているという日本人母娘にカメラを渡された。「エディンバラからの旅の途中です」と母親が口にしたので、「私もエディンバラにいました」と話すと、「もしかしたらその時、私達もいたかもしれないね。奇遇!」と、オレンジ色のセーターを身につけた母親が右手を差し出し、私からカメラを受け取った。外国では、日本人となれば誰とでも気心が通じ合うようだ。「これからどちらへ?」、「せっかくだから、ここでシェイクスピアの劇を見たいんだけど、娘が早くロンドンへ行こうと言うものだから。買い物したいらしいのよ。困った娘ね」と、脇の娘に目をやる。「私は明日、劇場に足を運ぶつもりですが」、「そうでしょう、ここに来てシェイクスピア劇を観なければ話にならないわよね。あんた一人で先にロンドンへ行きなさいよ」と、冗談交じりに娘をからかっている。ほのぼのとしたそんな母娘のやりとりに心が和む。
母娘との会話の後、庭のベンチに腰を下ろし、外壁に木のフレームがむき出しになっている「ハーフティンバー」と呼ばれる伝統的な建築様式を見上げながら、450年の時間をあらためて噛みしめる。

 

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地元の人たちのくつろぎの場

 

シェクスピアの生家を出ると、エイヴォン川の岸を町の中心部に向かって歩く。川幅30メートルほど。両側の柳の枝が川面を覆う様に垂れ下がり、アベックを乗せたボートが浮かんでいる。いかだがある。両岸にわたされたロープを手繰って5,6人が対岸に渡っていく。料金は100円ほど。無人の料金箱にいれる。

対岸は大芝生園。満々と水を貯えたエイヴォン川の流れと芝生の深い緑。いっぷくの絵を観ているようだ。家族連れや若い仲間たちがビニールシートを広げ思い思いに時間を過ごしている。上半身裸で大の字に寝そべっている人。サンドイッチをほおばる家族連れ。グラスを傾け真剣な眼差しで議論する中年男性たち。両肩をくっつけあった仲睦ましい恋人たち。一人静かに本を読んでいる若い女性もいた。もしや「ロミオのジュリエット」かも。生家のすぐそばでシェイクスピアの本を手にするなんて最高だね。
エイヴォン川のほとりに広がる芝生公園は、この街の人たちの憩いの場だ。