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おじさんパッカー 英国編(21)

16.06.22

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マージーサイド海洋博物館

 

「タイタニック」と「奴隷船」

 

「リヴァプールはビートルズだけじゃないよ。タイタニックや奴隷貿易の拠点でも世界に知られているんだから。詳しく知りたかったら『マージーサイド海洋博物館』に行ってごらんよ」。ビートルズショップのマスターが「せっかく日本から来ているんだから」と、勧めてくれた。店を出て南の方向に20分ほど歩くと、水辺に出た。埋立地のような広大な空き地が広がっている。300メートルほど先に、レンガ色の建物が見える。これがきっとマスターのいう「マージーサイド海洋博物館」なんだろう。

大きな錨(いかり)が横たわる玄関ポーチを抜け、館内に足を踏み入れる。「タイタニックは?」と、受付カウンターの女性に声をかけると、「ここはタイタニックだけしゃなく、大英帝国時代の奴隷貿易から現在までの海や船に関する資料や現物が展示されている」という。「でも、タイタニックはここを訪れる人たちのお目当てね。これ日本語で書かれた館内の案内パンフよ」と、A4サイズほどの紙切れをくれた。

 

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タイタニック号模型

 

タイタニック

 

豪華客船タイタニック号は、イギリス南部のサウサンプトン港からニューヨークへと向かう航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山と衝突し、翌日未明に沈没した。犠牲者は乗員・乗客合わせて約1500人で、当時世界最悪の海難事故だった。「タイタニック」は映画でもよく知られているが、ここリヴァプールとどんな関係があるんだろうと、いぶかしげに陳列棚を眺める。
そのタイタニック号は、北アイルランド、ベルファストの造船所で1911年に進水し、ここリヴァプールを母港とするホワイト・スター・ラインという会社が所有していたようだ。

 

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タイタニック号展示コーナー

 

タイタニック号の模型が、横たわっていた。その背後のガラスケースに、沈没事故時の乗客名簿が壁紙の様に貼りつけられている。乗客・乗員2200人。氷海に沈んだ死者、行方不明者1500人余りの名前は青字で表記されている。海底から回収された犠牲者が使っていたと思われるメガネや時計、そして晩餐会場でテーブルに並んでいたであろう大小数々の皿、コーヒーカップ、スプーンなどもあった。タイタニック号から引き揚げられた船体の一部や遺品などはすべて、ここリヴァプールに運ばれ、この博物館に収納されているようだ。「まさかこんなことになるとは、誰も想像しなかっただろうね」と、華やかなドレスを身にまとい、シャンデリアの輝く船内のホールでダンスに興ずる乗客たちの写真を見つめながら、老婦人が呟いていた。

 

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沈没直前まだ鳴り響いた鐘

 

奴隷貿易

 

18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのマルセイユやナントから積み出された武器や日用品などをアフリカに持ち込み原住民と交換。さらにこうして得た黒人を北米や西インド諸島でサトウキビ栽培などの農場主に売却し、その金で大量のコーヒー、香料、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が盛んになった。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上といわれている。ここリヴァプールは、世界有数の奴隷貿易港に発展していったようだ。この博物館は、その奴隷船が出発した港に面して建っている。

 

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奴隷を拘束した手枷、足枷

 

リヴァプール港を拠点にしていた、奴隷船ブルックス号の船長が書き留めた航海日記をもとにつくられた動画が流れていた。奴隷船が港につくと男の奴隷は2人ずつ手枷と足枷をかけられた上、船倉に詰め込まれた。奴隷に許された空間は一人当たり、長さ180cm、幅40cm、高さ80cmほどしかなくもちろん、寝返りさえ打てない。小さな帆船に蚕棚の様に500人、600人と積み込むのがふつうであったという。そして当時の航海のルートや彼らの商売、そして奴隷がまさに商品として各人に値段がついて売り買いされる実態が生々しく描かれている。黒人奴隷の背中に所有者の焼き印をあてるなど、思わず目を背けるシーンが次々と現れる。周りの見学者も一様に黙りこくったまま、悲しそうな表情で見つめていた。

 

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中華街

 

午後3時半、憂うつな気分で海洋博物館を後にし、リブァプール大聖堂を目指す。しばらくして住宅地に迷い込んだようだ。かつてサッチャー英首相が、「日本人はウサギ小屋に住んでいる」とさげすんだが…、あたりを見渡してもそんな大きな家はない。互いに軒を接していて窮屈そうだ。1軒あたりの広さもせいぜい50~60坪といったところか。
中華街に出る。中国風の家並みが1キロほど続く。ラーメン屋の軒先で数人の中国人が話しこんでいた。通りの入り口にゲートがあった。真っ赤な鳥居の上に2層の瓦屋根があり、中央に「中國城」の金色文字が光っている。まさに「ここは中国だ」と主張しているようだ。他国にいても自分たちの立場を認めさせる、旺盛で勇敢な精神を宿していることが読み取れる。「華僑」に代表されるように、ここリヴァプールの中国人たちも物おじせずたくましく生きているようだ。

 

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リヴァプール大聖堂

 

その中国人街の目と鼻の先に「リヴァプール大聖堂」がそびえている。高さ100メートルを超えるタワーに圧倒される。74年間かけて完成させたという。ホールの天井も目がくらむほど高く、広い。数人の観光客や信者と思われる人たちが静かに立ち尽くしていた。大聖堂が夕日に照らされ、茜色に光っている。視線の先にアイリッシ海が見え、そのはるか向こうに横たわるアイルランドにも思いが及ぶ。

午後6時22分、マンチェスター行きの電車に乗る。西アフリカのガンビアで生まれた黒人少年クンタ・キンテを始祖とする、親子三代の黒人奴隷の物語を描いた「ルーツ」を思い浮かべながら、流れゆくリヴァプールの街並みをぼんやり眺める。館内で貰ったパンフの片隅に書かれていた、『人間はどうすればこんなに残忍になれるのか?』、『神は存在していなかったのだろうか?』の言葉がいつまでも頭から離れない。