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おじさんパッカー 中欧編(13)

16.06.21

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跳ね橋

 

北のベネチア アムステルダム運河巡り 

 

アムステルダム最初の夜は、なかなか寝つかれなかった。ホテルがアムステルダム中央駅に近いということもあって、深夜まで人通りが絶えない。酔っ払いの甲高い声が響いていたり、窓の外を駆け抜ける車の音が朝まで消えることがない。時には救急車やパトカーが、けたたましくサイレンを鳴らしながら走り去る。眠れなかったのはそればかりではない。駅を降りた時に肌で感じ た、「この街はなにやら物騒だぞ、用心しなければ」という緊張もあって、目が冴えていたかもしれない。

アムステルダムを訪れたら、とにもかくにもまずは運河巡りと決めていた。朝食でエネルギーを詰め込んでホテルを出る。パスポート、VISAカードを腹巻におさめて「今日も何事もありませんように」と心に念じ、いざ出陣。「毎日、こんな覚悟で旅していて何が楽しいのだ」と、ときおり自問自答している自分に可笑しさがこみ上げる。中央駅前にある運河巡りの乗船場までは、ホテルから徒歩で10分ほどの距離だ。「予約していないのですがよろしいでしょうか」と、チケット売り場に顔を出す。肩まで伸びた金髪を後ろに束ねた中年女性が、無造作にチケットを突き出し、「10時発よ。すぐに出るから急いで」と、耳慣れないオランダ語で声をかけてきたが、雰囲気で何とかわかった。8.5ユーロ(約1150円)を支払うと「サンキュー」と英語で返ってきた。それだったら最初から英語で言ってよ。桟橋に係留されている観光船に乗り込む。船体はブルー一色に塗りこめられた、長さ20メートルほどの平べったい形をしていて、屋根は全面ガラス張り。白髪をくっつけ、互いに労わるようにグリーンのシートに体を沈める老夫婦。帽子をとってすっかり禿げ上がった頭の汗を、ハンカチでぬぐうビール腹のおじさん。はしゃぎながら駆けるように席につく若者達。こうして見通しの良い窓際は、瞬く間に埋まってゆく。

 

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乗船場

 

私は運転席の右斜め後ろに席をとる。ここなら前方の景色が一望できる。少し遅れてカップルが私の前に席に腰を下ろした。「日本人かも?」と、親しみを込めて視線を移す。二人は浮き浮きした様子で互いの顔を見つめ合っていた。「どちらから?」と、男性に声をかけると、「シンガポールからです」と、はっきりした口調で返ってきた。「あなたもシンガポールからですか?」と、傍らの若い女性が私に視線を向けた。「いやいや、日本からです」。「もしかしたらあなたもシンガポールからかなあと、二人で話していたんですよ。シンガポールでよく見かける顔だからね。あなたの顔」。「私もあなたたちのことを日本人かなあと思っていたよ」と言うと、二人は顔を見合わせて大声で笑った。これまで彫りが深く、金髪でがっちりとした大柄の人たちばかりを目にしていただけに、黒髪で凹凸の少ないやさしい顔立ちに出会うと、思わず声をかけたくなる。「3日前、結婚式を挙げたばかり。新婚旅行なんですよ」と、まだウェディングドレスを身にまとっているような初々しい表情の新婦さん。結婚式の余韻がまだ二人を優しく包んでいた。「それはおめでとうございます」と、互いに握手を交わす。お二人は明日、パリに向かうという。10日間もの豪勢なハネムーンがまだまだ続くようだ。「羨ましいね。いつまでもお幸せに」と、新婚ほやほやのご両人を前にして思わず口をつく。

 

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運河巡り船内

 

40人ほどが乗り込みほぼ満席。私達を除いてほとんどが西洋人だ。天井も両側の窓もすべてガラス張り。船内は温室に入ったようで暖かく、そして明るい。50過ぎのパイロットがハンドルを握る。鉄道線路をくぐり抜け、アステルダム中央駅の北側にまわると北海につながる幅1キロ近いアイ川に出た。しばらくして右に大きくハンドルを切り、また線路をくぐり小学校の運動場くらいの船溜まりにやって来た。そこから何本もの運河が放射状に市街地に向かっている。いわば運河の交差点だ。幅6メートルほどの運河に入り込んだ。舳先が橋脚にぶつかるのではないかとハラハラ、ドキドキ。パイロットのおじさんは、鼻歌を歌いながら舳先数センチで石の壁ぎりぎりに船を操る。慣れているとはいえ、見事というほかない。そのあと進路を変えるたびに、「アッ、ぶつかる」と何度となく目をつぶった。このおじさんには、運転以外にもうひとつ大事な仕事がある。観光ガイドだ。胸につけたピンマイクから盛んになにやらしゃべっている。早口なうえ、聞きなれないオランダ語とくれば私にとっては騒音のなにものでもない。運河の両脇を自転車や車が駆け抜けてゆく。レンガ造りの古風な建物が運河に覆いかぶさるように迫っている。よく見ると建物上部に天狗の鼻のような突起がある。それもあちらこちらの建物に。どうやら運河から荷物を引き上げるため、滑車を吊るしたものらしい。「今でも使っているのかな」そんな疑問が頭をよぎるが、せわしくハンドルを握るパイロットのおじさんに声をかけることもできないし…。

 

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ボートハウス

 

運河の岸辺にまるで両側駐車のように、船が列をなして停泊している。船体は赤や黄、白とカラフルだ。デッキから盛んに手を振ってくれる。ガラス越しに私も両手を伸ばす。海水パンツ一枚でデッキに寝そべっている人。テーブルを持ち出しお茶している人たち。洗濯物を干している奥さんらしき人もいた。船上に自転車が無造作に置かれているなど船が生活の場になっているようだ。ここでは運河での水上生活が認められているらしい。道端に水道、電気の取り込み口が設置され、郵便物も届くという。どうやって?あて先は、船が係留されている向かいの建物の名前でいいというから驚きだ。

船は、アムステルダム市街地深く入り込む。川幅が急に狭くなった。アーチ型をした石造りの橋が眼前に迫る。「この橋を抜けるのは無理だろう。パイロットのおじさんよ、引き返した方がいいのと違う」と思わず口をつく。緊張しながら運転席の脇から眼前にはだかる石の壁に目を凝らす。舳先を狭い水路に刺し込むと、さほどスピードを落とさず抜けた。思わず体を乗り出すと、石垣と船の間は10センチもない。神業だとおじさんのハンドルさばきに思わず膝を打つ。その後もいくつもの橋をおじさんは何食わぬ顔で抜ける。跳ね橋があった。ワイヤーで両端から持ち上げるという昔ながらのものだ。ゴッホの絵に出てきそうな牧歌的な景色だ。あらためてオランダに来たことを実感する瞬間だった。

 

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荷揚げ用の天狗の鼻

 

ゆっくりと進む船から見上げる街並みもいい。これまで上から目線ばかりだったので新鮮だ。運河沿いの並木や建物、道行く人たちの足もとが手を伸ばせば届く所にある。スカートの女性も、何食わぬ顔で運河のへりを早足で抜けてゆく。運河は、アムステルダムのメインストリートだ。もう二度と来ることはなかろうと、そんな思いで双眼鏡を取り出し、前方に広がる風景に目を凝らす。狭い水路を抜けると突然、視界が広がった。4本の運河が交差する船溜まりに出た。街路樹の枝が覆いかぶさるように垂れ、水面に大きな影をつくっている。これまでにない6、7階の建物が船溜まりを取り囲むように整然と並ぶ。お姫様が顔を出すのではと思われるような、贅沢にデフォルメされたバルコニーが白く輝いている。まるで美術館から抜け出した名画を目の当たりにするように、美しい運河と緑に囲まれた中世ヨーロッパの街並が眼前に広がっていた。思わず「長崎のハウステンボスみたいだ」と口をつく。「何を言っているのだ。ここの風景を日本にもってきたんだ。間違うんじゃない!」と、もう一人の自分がいさめる。船はしばらくエンジンを止めた。「ここは、この街一番の美しい所です。ゆっくりと眺めて頂戴」とでも案内しているのか、乗客は一斉にガラス窓に顔を押し付け始めた。向かいの新婚さんも、互いに手を握りしめうっとりしていた。乗客の大半はカップル。話し相手もなくポツンといるのは、私をはじめ数人ほどだ。こんな時、旅は一人でするものじゃないと思い知らされる。

ここで折り返すように船は方向を変えた。橋をくぐる時、必ずといっていいほど橋上から乗り出すようにして通りがかりの人たちが、船に向かって大きく手を振る。船内の観光客も負けじと立ち上がり、透明の天井めがけて両手を揺らす。くぐり抜けたあともなお橋の上からエールが届く。見知らぬオランダの人たちと心が通じたようで体が温かくなってくる。運河巡りを終え、アムステルダム中央駅の桟橋に降り立った。パイロットのおじさんが、「また、おいでよ。待っているからね」とばかり、下船する観光客一人一人に名残惜しそうに右手を高く上げて見送ってくれていた。